
もみじちゃん記・中編(長野県立美術館「再編する ― NAMコレクションの現在」)
前編・中編・後編に分けて書いた。これは中編である。

城山で出会ったもみじちゃんを描いたのは、《原爆の図》を描いて、
私が今いるこの城山公民館の隣の会場に持ってきた、丸木俊だった。
《原爆の図》の巡回展のことが気になって、岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回: 占領下、100万人が観た!』(新宿書房、2015年)を読んだ。
長野の巡回展の詳細はもちろんのこと、その後の新潟での展覧会についても詳細が載っていた。そこでは上野誠という版画家が受け入れの中心人物をしていて、宣伝用のポスターを自ら彫っていた。
上野誠。その名前にはどこか親しみを感じた。
高い天井に大きなグランドピアノ。私は小さい頃バイオリンを習っていたのだが、その発表会をしていたのが、川中島にある「ひとミュージアム上野誠版画館」だった。
版画館は閉館してしまった(上野誠の多くの作品が長野県立美術館に収蔵された)が、その近くの大きな交差点の片隅には「恒久平和を求めて」と書かれた碑があって、そこには上野誠の鳩がいる。

長野にやってきた《原爆の図》は3部作だった。そのうちの一つは「水」という題がついている。「水」の真ん中にも、子供を抱いた女の人が描かれている。女の人はうなだれて、子供は母の腕のなかでだらりとしている。
1954年に出版された図録を取り寄せた。そこにはそれぞれの図に文章が寄せられていた。声に出して読む。「水」の図で書かれていたのは、真ん中に描かれている母子の話だった。

もみじちゃんのお墓がある鬼無里の松巌寺には、観音母子像があって、子供を抱いた観音がいた。
もみじちゃんにも息子がいた。
物語のなかでは戦争中に息子も殺されるが、息子の墓は長野のどこにも見つけられなかった。

鬼女のもみじちゃんは都会から長野にやってきて、
都会のことが忘れられなくて、鬼無里に東京をつくりました。
その地名はまだ残っていて、今も訪れることができます。
もみじちゃんが長野の山のなかに東京をつくったこと、
そのことを知って、私は長野にある、もうひとつの、東京と深いかかわりのある松代に向かった。
松代に来たのは、小学校のときに遠足で来た以来だった。当時もこの壕の中に入って、解説を聞いたのを覚えている。フェンスの先に続く穴の向こうの暗闇をみていたら、多くの朝鮮人がこの穴を掘る作業で亡くなったことを聞いて、そのままその闇から目が離せなくなった。
松代大本営平和祈念館の方に案内してもらって、祈念館にある展示や、壕を見て、ほかの山にも穴があること、大本営だけではなくて、電話局や宮内省、天皇の御座所もできる予定だったことを聞いた。
天皇が来る予定だったところは気象庁の建物になっているが、今も外から見ることができる。ガイドの方とガラスの窓におでこをくっつけて覗いた。
天皇が来る予定だった場所の周辺に住んでいた住民は立ち退きをしなくてはいけなかったらしく、その検問所の跡も教えてもらった。目の前にはたくさんの住居がある光景が広がっていた。

1944年11月11日11時、ドーンという、山に穴をあける音。
松代に東京(の中枢機能)を移す工事が始まります。
朝鮮人と日本人、約1万人が動員されたといわれています。
しかし、正確な数字はわかっていません。
山の中の「東京」は、10キロメートル以上あり、大きく、長く、暗いです。
常に少し暖かく、しっとりとしていて、ところどころ水が岩肌を濡らしています。

松代は山が近くて、街中には川が流れている。
静かな空気のなか、ちゃらちゃらちゃらと水の音が聞こえてくる。
そういえば、鬼無里でも城山でも、ずっと水の音が聞こえていた。
鬼女もみじちゃんの墓がある鬼無里は裾花川の源流付近だ。
山から湧いた水は、山を流れ下って、大きな川に合流し、新潟の海にたどり着く。
そしてそこから遠く遠くに流れていく。
後編につづく