もみじちゃん記・後編(長野県立美術館「再編する ― NAMコレクションの現在」)

長野県立美術館の企画展「再編する ― NAMコレクションの現在」に出品している作品《もみじちゃん ― 鬼女と水ともうひとつの東京》の制作過程を書いてみようと思った。

前編中編後編とあって、これは一番最後の後編である。

もみじちゃんの内裏屋敷跡

今回の映像作品の構成は、映画作家の草野なつかさんにお願いした。

1月、冬真っ只中の長野に長野に来てもらって、一緒に城山・鬼無里・松代を回る。

「どこにも水がある」と話していたら、草野さんは川や暗渠にとても詳しくて、一見水が見えないところでも、

「ここ暗渠ですね」「ここはもともと川ですね」

と、さらなる水の存在を発見していた。

タイトルを《もみじちゃん ― 鬼女と水ともうひとつの東京》にすることに決めて、台本を書き始めた。

もみじちゃんと水を巡って旅をする。書き始めたときは、そんな感覚だった。

都会から長野にやってきて、33歳で戦争で死んだもみじちゃんは、どんな気持ちだったのだろう。能の『紅葉狩』のなかでは、存在を忘れられて寂しい、といったような台詞が出てくるけど、もみじちゃんは鬼無里にいたとき、何を考えていたのだろう。
上手く言語化できないけれど、もみじちゃんに親密さを覚えていった。

松代の松代大本営平和祈念館の展示に、地下壕が掘られる前の時代の背景や長野での出来事がまとめられているパネルがあった。

1933年に治安維持法違反として多くの教員が検挙された事件、二・四事件についてもそこで知った。

大正時代から長野では、自由主義教育や白樺派の影響を受け、新しい教育を実践する先生がたくさんいた(その流れのなかで白樺派の人たちが長野に講演に来ていたりしている)。その多くが、反戦を唱えていた。美術館の隣の城山小学校にもそうした先生もいた。そして、信州白樺派と呼ばれる人たちも生まれていく。

だが、二・四事件の後、反戦を唱えていた教員は教育現場から遠ざけられる。その後、長野県は多くの青少年を満州に送り出したりしていて、教育現場も戦争協力体制になっていく。

そして思い出す。
私の祖父母の家の近くの集落に建っている、満州開拓移民慰霊碑。
城山の美術館のすぐ近くに建っている、満州開拓青少年義勇隊の碑。
阿智村にある、満蒙開拓平和記念館。
景色が次々と流れてくる。

パネルを見ながら、この時代、アーティストはどうしていたのだろう、と思った。
そして芸術家の山本鼎が長野県上田ではじめた農民美術運動、こっぱ人形と出会う。

初めて彫った日のもみじちゃん。全然できなくて絶望する。

こっぱ人形という、木の木っ端から彫っていく人形がある。山本鼎がはじめた農民美術運動のなかの制作物の一つで、上田市立美術館の山本鼎コレクション展示で見たものには本当に枝一つから形を彫り出していったものもあった。

コゲラの里工房というアトリエで、こっぱ人形教室がある、ということを知って、アポを取って、担当学芸員の茂原さんと先生に会いに行く。
先生の話は、技術的なことから、農民美術運動の思想や背景まで、丁寧に教えてくれた。

1919年に始まった農民美術運動は、日本で戦争が激化していくなか、 1938年に研究所は閉鎖され、農民美術運動も収束していく。

戦争の気配を感じながらも、作る喜びを農民をはじめ、長野の人に教えていく山本鼎の話は、鬼無里の人たちに読み書きや琴、縫い物を伝えたもみじちゃんの姿にも重なっていく。

「自分が直接に感じたものが尊い
そこから種々の力が生れてくるものでなければならない」

これは山本鼎が言った言葉だが、
「直接感じる」ということに、こっぱ人形を彫りながら実感が少しずつ湧いてくる。

こっぱ人形をつくるとき、私は、木を触りながら、彫る対象についてじっくり考えたり感じたりする。
私は、人体のつくりや、木の流れを感じていく。
時間をかけて対峙して彫ったそれは、私にとって、とても大事なものになる。

それは、戦争をするぞ、となる態度とは真逆のものに感じたし、私は絶対にもみじちゃんを彫りたいと思った。そして工房に通った。
丸木俊が描いた、もみじちゃんの挿絵を参考に、私のもみじちゃんを想像し、彫っていく。

どういう人だったのだろう、33歳だからあまり子供に見えても違うよね、都会から来た人だし伝説的な人だから髪の毛は長くて多くてもいいかもね、角は村人には見せてなかったのではないか、戦争をしたのだから、おとなしく座っているというより、力を感じる、今にも動き出しそうな感じを少しでも持ったほうがいいかもね、

そんなことを先生と相談しながら、私自身の身体を見て、人体のかたちを確認しながら、もみじちゃんを彫刻刀で彫っていく。